RYO_ya_K

本音。

絶対はない

 

 

物も人も、絶対のものなんて無いと私は思ってる

 

諸行無常って言葉があるように、私が生まれてくるずっと前から誰かもそう思ってたんだと思う。

 

 

でも、その "絶対" に期待して希望を夢見るのが人間で

誰もが持っている負の部分が見えれば、信じていただけ "裏切り" になる。

 

 

どこかで分かってはいながらも、認めたくない自分がいて

何も考えず、無神経にいれたらどれだけ楽だろうって思う。

 

 

自分に無いモノを持ってる人が羨ましくて

時々憎くて、腹立たしい。

 

頭の中で、妄想するのは簡単。

なりたい自分になれる。したいことを思う存分する。

 

でも、ふと我に返ったときの理想と現実のギャップに酷く落ち込む。

 

 

"気にしい" だとか "考えすぎ" ってそんな言葉一つで片付けないでって思う。

 

自分が一番分かってる。

だから、その言葉が余計に刺さる。

 

 

いつか絶対くるよ、絶対に壊れないと思ってたモノが壊れる日。

 

 

自分の傷を最小限に留めるための

対策だけが上手くなる。

 

"信じて傷付くなら、もう最初から信じない"

これ決まり文句。

 

 

でも、どうせ信じる。

 

同じことの繰り返し。

 

 

悩んでる自分は嫌いだけど、意外に考えてる時間は嫌いじゃない。

 

 

それで成長できてるかどうかは分からないけど

なんかちょっと、コツが掴めたような気になる時もある。

 

 

まぁ、失敗するけど。

 

 

全てのモノに絶対はないね。

 

 

「だから、人生は面白い」とか言う

カッコ付けた締めくくりとか、絶対しないけど。

 

 

 

 

ネットの世界

 

 私は人付き合いが苦手です。

 

大抵の人とは、関係が長続きしません。

 

 

その原因の一つは、不安が自分の中に溢れ出すと「自問自答」が始まり

答えという名の”安心”を見つけられないと相手への遠回しな「確認作業」に入り

最後は、そんな事をしている自分への「嫌悪感」で「自滅」して

全ての関わりを「リセット」してしまうのです。

 

 

なぜそんな心の葛藤を持つようになったのかは、

親、家族との複雑な関係性と、学生時代の虐めが大きく影響しています。

 

 

私の母親は、生まれて直ぐ実の母親に捨てられてから

父親に引き取られた先で母親が7回かわり、その母親たちから酷い虐待を受け育ちました。

 

若い時から一人立ちして自分だけの力だけで生き抜いてきた

そんな母の夢は、「自分の幸せな家族をつくること」

 

 

私との関係が崩れたのは、私が虐めにあってから。

母の理想としていた”家族像”というものが崩れていったんだと思います。

 

「親と仲の良い子供」、「何の問題も無く学校生活を楽しそうに送る子供」

「仲睦まじい夫婦」、「安定した家族の風景」

 

そんな母の夢を、私は崩してしまいました。

 

 

虐めが原因で、心が思うように動いてくれなくなった私は14歳から心療内科に通い処方された大量の薬を飲み始めることになったのです。

 

多いときは、1日28錠。

目の焦点も合わず、3秒前に話したことすら思い出せなくなっていました。

 

何度も自分を傷付けては、両親は怒り狂いました。

 

子供のそんな姿を見て、最初は悲しみで泣き、次に怒り、最後は呆れ

そして、傷付けてる私を見てはそれを煽るようにまでになっていました。

 

何度も警察がきて、近所に人には「問題のある家族」として見られるようになってしまい

もう普通の感覚ではいられないほど、家族全員の心が麻痺していました。

 

 

母親の幼少期からの心の傷と、それでも死に物狂いでやり抜いてきた自信と

 それによって芽生えた大きな理想を、母親は私に全力でぶつけるようになっていました。

 

 

 

そんな状況に命の危うさを感じた私は、

薬をのめば飲むほど、自我が失われてくような不安もあり

自己判断で断薬することを決め、今は一切の薬を断っています。

 

私の場合、大きな副作用は無かったけれど

大人になったいまでも精神的に負った傷は癒えず、仕事もできずに

悪夢を見ればおねしょしてしまうような生活を送っています。

 

 

学生時代の友人も居らず、社会に出てからの友人もいない自分にとって

唯一の居場所は、「ネット」にあり

その中で世界の色んな人種の人と関わり、ひとりひとり違う考えと、生き方を身近に聞いて

 

自分との違いに悲しくなるときもあれば、自分と似た境遇の人と出会いほんの少し心の傷に癒しをもらい

自分のどうしようもなく辛い経験も、誰かの役に立つときがあるんだと知れたのです。

 

 

私にとって、このネットの世界は目に目ない怖いものでもあり

良い部分、悪い部分が顕著に出る、心の動き、思い、人柄が見えづらい難しい世界で

仲良くなるまでにそう多くの時間は必要なく、短い期間で相手のことを知れた気になれるのもネットの特徴だと思います。

 

けれど、どんなに仲良くなれたと思っても切れるときはたったワンクリックで関係は終わってしまうような残酷な世界でもあるのです。

 

顔と顔を合わして、話しをしていないから話しやすいことも

顔を知らないからこそ、傷を付けるという痛みも感じにくいのがネットです。

 

 

これまでにたくさんの人と関わってきた中で

感じた私の思いや考えをこれから書いていこうと思います。

現実を語るにはあまりに重いから

 

友達の前ではいつも明るく”普通の人”でありたいから

 

「悩みなんてなさそう」ってよく言われるけど。

 

 

 

面白くて楽しくて、一緒にいたいって思われたいから

 

いつも自分にスイッチを入れて、限界以上に頑張ってみるけど

 

終わった後に、無性に虚しくなる。

 

 

 

自分を語るには、あまりに重たいから

 

 

みんなが好む、理想の人物に近づこうとして

 

嘘は大嫌いだけど、心底にある本音とぶつかる。

 

 

 

どうしようもなく身動きが取れなくなって

 

理想にも程遠い、何かが出来上がる。

 

 

 

人と話すとき

椅子の下にしまった本当の自分と

 

誰かと自分の理想を混ぜた私が楽しそうにしていても

 

どうにも逃げれない現実にぶつかる。

 

 

 

 

"嫌われたくない" ただそれだけ。

 

 

存在意義

 

 

結局のところ、いつどこでどう情報が流れても良いように

自分のことは話しません、答えません。

 

いつ関係が崩れても傷付かないように

"所詮、そんなもん" だと早々に見切りをつけて信じません。

 

何かあったら、

"結局はこんなもん" だと諦めました。

 

 

最終的に、

「形あるものはいつか必ず無くなるんだ。」と思い知る。

 

 

 

過ぎ去ったか、忘れ去られたか、そもそも元々存在すらしない

 

 

 

「いつか、笑って話せる日が来る」と言うけれど

あとどのくらいの年月をかければ、その日が来るのだろうか。

 

 

その時が来る前に、存在した記憶すら曖昧に

 

 

ずっと、身を潜めて生きてきた。

 

 

実体がないような  架空の人物みたいな気持ちになる。

 

空想の中の自分は生き生きとして、それが現実よりも確かに感じる。

 

 

 

意味を求めて 価値も無い

 

人がする行動

それは意味のあるもの

 

人が考えること

それは価値のあるもの

 

人が人を求めること

それはふたつ揃うと意味のあるものになって

ひとつだけなら無意味なものになる。

 

 

どれだけ想いがあっても

受け取る気持ちが無ければ無意味で無価値なものになる

 

 

どれだけ考えても、意味も為さない。

 

 

人は皆、何処かで見返りを求める。

 

 

自分を守りたがる。

 

傷付きたくないって。

 

怖いんだって。

 

 

だから、自分が大事なんだって。

 

 

 

どれだけ綺麗な言葉を並べたって、

 

何処かに残酷な程、腐った人間性を見る。

 

 

それでも、好きだって。

 

 

 

薄暗くて血生臭い底で、灯りを探す。

 

 

 

 

見つからなくて、途方に暮れれば

 

安心を他人に求める。

 

 

 

優しさを売って

他人の中で、自分の存在意義を見出そうとする。

 

 

 

一時的に埋まった穴は、そのうち空洞に戻って

 

誰よりも真っ暗な自分を見て、結局独りだって知る。

 

 

 

 "頼られたい、大人の自分で在りたい、良い人でいたい"

 

 

 "他人の理想とする人に自分はなりたい"

 

 

 

 

他人に自分は埋められない。

 

自分は自分でしかない。

 

 

 

 

 

人に言わない事は、プライド。

 

口から出る言葉は時々、毒を纏うらしい。

 

 

 

 

 自分の背負ってるモノの重さを知ってるわたしには

 

 聞かせた相手がどれだけの思いを背負うのかを良く知っている。

 

 

 

無償の愛で受け止めてくれる人のいない道で生まれたわたしには、

 

自分のありのままの、そのままの想いを伝える術を知らない。

 

 

 

曲がったやり方だって、自分でも分かってる。

 

 

 

それでも、大切にしたい人にほど

 

自分のままでぶつかって、受け入れてくれるか見てる。

 

 

何度も距離感を測りながら。

 

 

これがわたしの変わった愛情表現だ。

 

 

 

 

大切にされないのなら、大切に出来ない。

 

 

自分だけが与えて、リスクを負って、傷付くのは御免だ。

 

 

 

一か八かの勝負はしない。

 

傷付く前に、あらゆる可能性を考えたい。

 

それが、どんなに面倒臭がられても

 

返ってくる反動のダメージほど、キツイ物はないって

 

自分が一番良く知ってる。

 

 

 

だって自分が大事だ。

 

 

自分を捨てない為に。

 

 

 

自分が堕ちれば、人を助けることさえ出来ない。

 

 

 

 

だから、言わない。だから、言えない。

 

 

 

 

本当の心底の部分は、どうしたって分かってはもらえない。

 

「そもそも人は一人で生きる者なんだから、分かってもらう必要ある?」

 

 

 

だって、そもそも自分が自己開示出来てないんだから。

 

 

 

自分を見せない相手に、信頼なんて築けない。

 

「所詮そんなもん」と言われて傷付いても

 

 

言わせてしまっているのは自分自身なのか。

 

 

通ってきた道で、積み重なったモノなのか。

 

 

 

 

 「そういう人って思って割り切れば良い」

 

 

「  "所詮、そんなもん" 」

 

 

 

結局、この繰り返しだ。

 

 

 

 

簡単に割り切れないから"感情"ってある。

 

 

自分にとって、価値のない物でも

 

相手にとっては大きなモノを意味することもある。

 

 

 

興味や関心が無いから、要らないよ。って

 

 

 

 

損か得かの人生なのか。

 

 

 

 

必要なものだけ。

 

 

 

 

それ以外は、自分にとって必要じゃない?

 

 

 

 

 

それで、自分のバランスを保ってる事にも気付かずに

 

虚しさを覚えて何も見えなくなってる。

 

 

 

やっぱりどこまでも、自分が大事で、守りたくて

 

自分の傷だけに敏感で、どこまでも浅はかで

 

 

どうしようもない。

 

 

 

 

真っ暗だ。

 

 

 

 

 

 

どれだけ唱えても、自分が経験したことのない傷みにはみんな無関心で

 

空っぽな想いや考えは所詮、机上の空論だと見抜かれる。

 

 

 

 

無知な人が、知ってる言葉を並べたところで、何の魅力も無い。

 

 

 

 

 

同じ道を通った人にしか、見えないモノがある。

 

 

 

 

答えが欲しい訳じゃない。

 

 

 

ただ寄り添って。

 

 

その傷みに気付くときは来るのかな

 

 

 

そこにある意味が、理解されることは無いのだろうか。